こんにちは。カウンセリングオフィスボイスのうえだふみこです。
最後にブログを書いてから6ヶ月が経ってしまいました。
しかも前回は、「書くのはつらいよ|それでもブログを続ける理由」なんてタイトルで書いたもんだから、今キーボードを叩きながら「ウソつき!書き続けてないじゃん」って言葉が聞こえてきそうです。
ところで今回は「聴く」と「聴す」の関係について、考えてみました。
「聴す」と書いて「ゆるす」って読むと知ったのは、たしか3,4年前。
当時は「へぇ、そうなんだ」程度にしか思っていませんでした。
でも、半年ブログを休んだら「聴す」の意味が腑に落ちるようになりました。
この記事では、私の体験談をまじえながら「聴く」と「聴す」の関係についてお伝えしますね。
「ねばならない」という声
さかのぼること半年前。
「毎月ブログを書こう!」と決意して一年間書き続けていたのに「ちょっと無理かも・・・」と思いはじめました。
生きていれば予期せぬことは起きるもので
野良猫の保護、ペット可の物件探し、年度途中の引越しを含めて
連続するハプニングの対応に追われるうちに週3回のサウナ習慣も月1,2回に激減するほど多忙を極めました。
楽しいことでさえこうなのだからもともと苦行であるブログは、早い段階でTo Do Listから外れてしまいました。
でも、夏休みの宿題をぎりぎりまで先延ばしている中学生のように頭のすみっこでブログのことが気になっていました。
そんな自分と対話してみたら・・・
心の声:なんで、毎月書かなければならないんだろう?
頭の声:だって、毎月書くって決めたじゃない。
心の声:そうだけど、決めたからって編集者が来て期限を迫ってくるわけでもないのに。
頭の声:でも、ずっと続けてきたじゃない。だから書かなきゃいけないんだって。
心の声:それは分かってるけど、今は目の前のことをこなしていくのが精一杯で、書くアイデアさえ湧かないんだって。
こんなやりとりがあり、今回は心の声に軍配が上がりました。
「ブログを休もう!」
いろんなことの目途が立って、「落ち着くのは半年後かな?」となんとなくの見通しがついた頃、
思い切って「半年、ブログを休もう」と決心。
すると身体からすっと力が抜けていく感じがする。
それはピンと張っている糸がわずかに「ゆるみ」を持つ感覚。
ゆるんではじめて張りつめていたことに気づいて「休みたかったんだな、私」と心の声が聞こえるようでした。
休むと言っても、誰かに報告義務があるわけでもないし、公にお知らせする必要もない。
では、私は誰から休む許可を得たかったのだろう?
「ねばならない」の正体
「ねばならない」の正体は意外に根が深く、歴史が長かったのでした。
私のなかのパーツたち
だらだらしたいパーツさん
もっと成長したいパーツさん
自然体になりたいパーツさん
人に厳しいパーツさん
人に優しくなりたいパーツさん
ここ数年自分のなかのいろんなパーツたちと向き合うようになったので、どうせなら休んでいる間に「ねばならない」思考のパーツをもっと探求してみようと思いました。
このパーツはどんなときに発動して、どんな役割を持っている?
何に不満を持っていて、何を伝えようとしている?
「几帳面な子ども」から「完璧主義の大人」へ
振り返ると・・・
私は昔から几帳面すぎる子どもでした。
たとえば
みかんを2つに分けて皮をむくときに、小袋が左右で同じ数でないと気が済まない。
本を読むときに、定規を使ってピシッと線を引きたい。
そうしなければなんか気持ち悪い。
今ではみかんの小袋を数えることなく、ぱくりと食べて、
定規を使うことなく、ざっと線を引くようになりましたが、
大人になってこの傾向は消えたわけではなく、形を変えて存在しています。
特に顕著なのは仕事の場面。
細部にこだわって完璧主義になったり、逆に生産性や効率性を追求するあまりに無駄を嫌うなど、ちょこちょこ顔を出します。
内的家族システム療法との出会い
「ねばならない」の正体が「管理者」というパーツだと確信したのは、
内的家族システム療法(Internal Family Systems Therapy)という心理療法と出会ってからでした。
管理者パーツとは、「先回り型パーツ」とも呼ばれ、感情的な痛みを意識から遠ざけて、生活を管理しようとするのが目的。
自分自身や自分の環境をコントロールしながら、一生懸命に仕事をして、生産性を高めて社会的に認められようとがんばる。
いったい、これのどこが問題なのでしょう?
それは「ほどほど」ではなく、「極端」に働いてしまうとき。
たとえば
「ここまでする必要ないよね」と思いながらも、
肩が痛くなり、指が動かなくなるまで研修の資料作りに時間とエネルギーを費やしてしまう。
管理者パーツが働きすぎるせいで、身体が酷使されるのです。
管理者パーツとの対話
管理者パーツの完璧主義傾向は私をひどく疲れさせ、
生産性を重視するため、余暇や遊びのないスケジュールを作ってしまう。
このパーツはときとして「邪魔者」として映っていたために、
今まではその存在する目的をしっかり認めようともしないし、どんな思いを伝えようとしているのかなんて耳を傾けようともせず雑に扱ってきました。
ただ、生きづらさの根底には「どうもこの傾向が関係してそうだな」と認識していたので、
いつか取り組むべき課題だとうっすら感じていたのです。
そこで「聴く」ということをはじめたら、予期せぬ発見に遭遇しました。
私の場合、管理者パーツは「肩にいる」感覚がなんとなくあったため、
温泉に行った時にかけ流されるお湯を肩にあてながら、
誰かと対話するときのように「肩さん」に聴いてみました。
「今日もありがとうね。疲れている?」
「どんなことに不満を感じている?」
「どうしてほしい?」
すると「肩さん」は答える。
「最近、睡眠時間短いからもっと寝たいなぁ」
「忙しくても温泉は毎週行きた~い」
「なにも考えない時間がほしい」
「聴く」から「聴す」へ
「聴く」の作業をしたら過重労働を強いていたと気がつきました。
すると・・・
いたわりの気持ち
申し訳ない気持ち
泣きたい気持ち
が出てきて
「いつもがんばっているの知ってるよ」
「できないときがあってもいいんだよ」
「そうやって守ろうとしてくれてるんだね」
自分を「ゆるす」言葉が生まれて、
流れるお湯とともに肩の力みがじわ~っと溶けていく。
私がブログを休む許可を得たかったのは、管理者パーツだったんだぁ。
ふと・・・
「聴す」と書いて「ゆるす」と読むのは、「聴く」からなんだなと数年前の疑問が一瞬にして解けた気がしました。
改めて「聴く」と「聴す」を調べてみると・・・
「聴く」は「14の心で耳を傾ける」
「聴す」は「不都合なことがないとして、そうすることを認める。希望や要求などを聞き入れる」
とありました。
たくさんの心を寄せる思いで耳を傾けると「聴し(ゆるし)」が生まれるのかもしれない。
私自身の体験を重ねると、こう解釈できるのです。
まとめ
「ねばならない」思考の管理者パーツとは長いつきあいで、子どもの頃からずっと私とともに生きています。
「これがやめられたら、もう少し自然体になれるのに」とどこかでうとましく思うことはあっても、耳を傾けたり、ねぎらうなんてことはしてきませんでした。
「どのパーツにも存在する目的や意味がある」
このことを知ってから
私を苦しめるように見えていた管理者パーツにもちゃんと役割があり、
私に不利なことが起きないように先回りして動いてくれたり、
守ろうとしてくれていたんだなと理解しはじめたら、
排除するべきものではなく、うまくつきあっていくものだと思うようになりました。
「聴す(ゆるす)」ためには、まずは「聴く」ことが大事なんだな。
<参考文献>
ジェニーナ・フィッシャー(2022):サバイバーとセラピストのためのトラウマ変容ワークブック トラウマの生ける遺産を変容させる.岩崎学術出版社.